新しい年2013年
母は病院で迎えました。
昨年6月転倒して頭部打撲脳内出血のため10日間入院
更に、11月2日再び転倒により第二頸椎骨折という重症
幸い、麻痺など最悪の事態は免れましたが、
当分、入院生活が続きそうです。
病院からも退院がいつになるか伺っていません。

2012年12月4日 首を固定するためにハローベストを装着した母
昨年は転倒が多く
他にも3度、顔面裂傷で縫合しました。
レビー小体型認知症の為、歩行が困難なのにもかかわらず
私に手をかけまいとしたことが
今回の事態を引き起こしてしまいました。
今から5年ほど前です。
母から手足のふるえ、しびれがあるとの話があり、もしかしたら、脳梗塞かもと思いの脳神経外科で診察していただきました。
診察の結果、病名はパーキンソン病
約1年ほどは、通院、買い物などの援助をするだけで
母一人で生活をしていましたが、病状はだんだん悪化
一人での生活が困難になり、20数年ぶりに実家にもどり母と生活するようになりました。2009年の6月でした。
初代金太郎が虹の橋へ旅立ったのはその年の7月
母との生活は一ヶ月余りの短い間でした。

2009年6月26日 母と散歩する初代金太郎
いっしょに生活するようになって
気になる母の言動や行動
誰かいる、こどもが寝ている、大勢人が来ているなど幻覚、錯視、妄想などの症状が見られるようになりました。
意欲や気力も不安定、2年ほど前からトイレも思うように歩行できないため失禁することも多くなりました。
もしかしたら、パーキンソン病ではないのではと思い、認知症の専門医師に診察していただきました。
診察の結果はレビー小体型認知症。
主な症状は幻覚、妄想、進行するとアルツハイマーのような認知障害、パーキンソン病のような運動障害
最終的には寝たきりになるやっかいな病気です。
母の症状は今回の入院で一気に進行してしまったような気がします。体はいたって健康だったので、怪我さえしなければと思っていたのですが。
母には永い間ずいぶんと苦労をかけてしまったので
出来るだけいっしょに生活してあげたいと考えているのですが
今回のことで、自宅で介護をするには限界を感じるようになりました。
母の出生地は長崎市
爆心地浦上に住んでいました。
原爆投下の日は幸いにして、長崎市の隣、諫早市に出かけていたため難を逃れましたが、親兄弟、親戚、友人などすべてを失ってしまいました。
当時、15歳という多感な少女だった母はその地獄図ともいえる信じられないような光景の中で両親を兄弟を友人を探し回ったはずです。当然、被爆もしているはずです。
今、患っている病気も放射能の影響かも知れません。
母からは当時のことは聞いたことはありません。
母の子どものころのこと、祖父母のこと、ふるさとのことも聞いたことはありません。話そうともしてくれません。
一昨年の3.11福島原発事故
母はどんな気持ちでいたのでしょうか。
安全だと思っていた原発が取り返しのつかない事故を起こしてしまった。ふるさとを追われ、未来を担う子どもたちの体をむしばむ。
この平和な日本で、長崎の悲劇が再び起こってしまうとは、しかも、その責任を誰も取らない。
こんな日本に誰がしたと叫んでいることでしょう。
母は昨年の衆院選においてベッドで、震える手で、
その思いを一票に託しました。
立ち会っていただいた方にも母の思いをしっかり伝えてあげました。
残念ながらその思いは実りませんでしたが
私たち人類にとって、かけがえのない地球を守るために
涙の母の一票、決して無駄にならないと信じています。
今回の衆院選で私たち国民が選択した政権は
原発再稼動の再検討を始めました。
とんでもない話ですが新設にも前向きなようです。
将来の長崎・広島・チェルノブイリが
日本を地球を壊滅に追いやるかも知れない原発が日本国内に50数基もあるとは信じられません。
原爆被災者を親に持つ私は
もう2度と長崎や福島の悲劇を起こしてはならない!
一人でも多くの方に伝えていかなければならない責任があると思っています。
私たち国民の選択で原発はSTOPできるのです。
私たちは生きる権利を選択するべきだと思っています。
命を守れなくて何が出来るでしょうか。
福島の悲劇は日を追うごとに明らかになっていくはずです。
長崎や広島のように!